年間700万人、見えない死
世界保健機関(WHO)は、微小粒子状物質PM2.5に代表される大気汚染が引き起こす肺がんや呼吸器疾患で、年間700万人が早死(premature death)していると発表しました[1]。世界人口の約90%が汚染された大気の下で暮らしており、特に汚染が深刻なのはアジア・アフリカの低・中所得国で、死者の90%以上を占めています。
リスクコミュニケーションを考える上でやっかいなのは、一部の高感受性群(高齢者、呼吸器疾患者、小児など)を除いてPM2.5には「急性影響がない」という点です。汚染された地域に居てもすぐに症状は出ないため、「知識や情報が無いとリスクを認知できない」のです。
実際にインドや中東、アフリカに旅行するとわかります。PM2.5濃度が100ug/㎥を超えていても、街は霞がかっているだけです。体に異常は感じられず、マスクをする人も疎らです。例え大気汚染が原因で亡くなっても、死因は「がん」「肺炎」と分類されるので、後世にもその危険性が伝わりません。教育が行き届かない人たちにとって、それは「見えない死」だと言えます。
ポケットPM2.5センサー
そこで、誰でも大気汚染を見ることができるよう、スマホ接続型の大気汚染センサ「ポケットPM2.5センサー」を開発しました。これには、ポケットガイガーの経験が生かされています。
ポケットPM2.5センサー(以下、ポケP)はレーザーLEDとPINフォトダイオードを使った光散乱方式を採用することで、小型・安価・低消費電力を実現しました。人体に有害なPM2.5(空気中に漂う直径2.5um以下の微小粒子)と、PM10(直径10um以下の粒子)の濃度を、[ug/㎥]という単位で測定できます。測定結果はGPSの位置情報と共に、CSVやGoogle EarthのKMLフォーマットにとして共有・可視化が可能です。[2-3]
しかしいくら測定値を表示しても、普通の人にはリスクの度合いが理解できません。そこでポケPでは、米国環境保護庁(US-EPA, United States Environmental Protection Agency)が定める色分けルール[4]に従って、画面の色を変化させています。
途上国特有の汚染
ポケPはインド、ミャンマー、スリランカ、インドネシア、ルワンダ、ウガンダ、中国などの途上国で使われ始めています。フィールドワークを進めて行くと、途上国特有の特徴として「局所的にPM2.5濃度が大きく異なる」という事がわかってきました。これまでの気象観測では国や地域ごとのマクロな範囲で大気汚染を測定してきました。これは、「空気は全部つながっているから濃度はどこも大体同じだろう」という仮説に基づいています。しかし実際に測定してみると、道路状況や用途地域などのミクロな状況によってPM2.5濃度が大きく異なるのです。この背景には、先進国には見られないPM2.5の排出源(無車検の車・バイク、野焼き、路上産業など)が関係しているようです。
逆に言えば、これらの粗悪な排出を改善したり、排出源の近くを避けて生活したり、一時的にマスクや空気清浄機などの防護措置を講じるといった「一人一人が出来る行動変容」によって、個人曝露を大幅に削減できる可能性を秘めています。このような個人レベルの行動から環境を改善するアプローチをナッジ(nudge)といいます。ナッジは今後、公衆衛生の分野においても非常に強力な手段になるでしょう。
一方で途上国では、室内の大気汚染(household air pollution, HAP)も深刻です。この研究については原因と対策が全く異なるので、別のページで紹介したいと思います。
産科外来での活用
ここでナッジ(nudge)の例として、国立環境研究所のTinTin Win Shwe医師らと、ヤンゴン第一医科大学で実施している臨床研究を紹介したいと思います[5-6]。妊婦の協力を得て、ポケPを装着しながら生活してもらいます。すると、「いつ」「どこで」「どれだけ」PM2.5に曝露したかが一目瞭然に分かります。妊婦や生まれてくる新生児は、PM2.5に対して特に影響が出やすい高感受性群(sensitive groups)とされています。また母親にとってみれば、産まれてくる子供のためにも、なるべく曝露を減らすための努力をしたいと考えるのが自然でしょう。つまり産科外来を巻き込みながらPM2.5を可視化することは、「行動変容」に繋がる可能性があるのではないでしょうか。
この研究はまだ始まったばかりで、もっと科学的な評価も必要です。しかしナッジのような人間科学的なアプローチによって人々の行動が環境負荷を減らす方向にシフトできると良いなと考えています。
先進国特有の汚染
途上国の話しばかりしましたが、実は先進国でもPM2.5の濃度が非常に高い場所があります。それは、「喫煙所」と「地下鉄の駅」です。モノを燃焼させると大量のPM2.5が排出されるので、喫煙所及びその周辺の濃度が高まるのは当然といえます。ではなぜ地下鉄の駅にPM2.5が存在するのでしょうか?その理由は、列車のブレーキダストではないかと言われています。駅の手前では列車が必ずブレーキをかけるので、摩擦によって生まれた微小な金属粉が空気中を漂っているのです。このブレーキダストを低減させる研究も行われており、大いに期待したいと思います[7]。私がNHKワールドのドキュメンタリー番組great gearに出演(12:30~)した際にも、この事を紹介していますので、よろしければご覧ください。
地域住民への説明責任
もう一つ、大気汚染について先進国でも重要な課題があります。それは工場や発電所を作る際の環境影響評価(アセスメント)です。従来のアセスメントでは、専門家が数理モデルやシミュレーションを使って分析を行い、その結果に基づいて事業者が住民説明会を開催し、市民からの意見を聞くことが求められてきました。しかし発電所は何十年も運転するのですから、稼働が開始した後でも、市民が自分事として生活圏の環境を継続測定することで、持続的な信頼関係が構築できるのではないしょうか。また、もしもPM2.5の測定値に大きな変動があったり、あるいは数値についての疑問や不明点があれば、専門家・事業者といつでも対等な立場で議論できる社会システムも必要でしょう。これはポケットガイガーの運営でも学んだ事です。
このような観点から、東北大学の丸尾 容子教授らと共に、発電所の周辺での環境測定を行ってきました[8-9]。将来的には、町内会などの地域組織、事業者や行政と連携しながら、市民測定のフィールドワークやワークショップを開催したいと考えています。
参考文献
- WHO Global Ambient Air Quality Database (update 2018), https://www.who.int/airpollution/data/en/
- Y.Ishigaki et al.: Agile Way of Risk Awareness by Smartphone-Connected Environmental Sensors, International Conference on Information Systems for Crisis Response and Management (ISCRAM), May 2017
- Y.Ishigaki et al.: Pollution Mapping by Smartphone Becoming Real Possibility , International Conference on Civil, Disaster Management and Environmental Sciences(CDMES), Feb 2017
- the U.S. Environmental Protection Agency (EPA) : The National Ambient Air Quality Standards for Particle Pollution: REVISED AIR QUALITY STANDARDS FOR PARTICLE POLLUTION AND UPDATES TO THE AIR QUALITY INDEX (AQI) , Dec. 14, 2012.
- E.E.P.N. Yi, N.C. Nway, W.Y. Aung, Z. Thant, T.H. Wai, KK. Hlaing, C. Maung, M. Yagishita, Y. Ishigaki, T.T. Win-Shwe: Preliminary monitoring of concentration of particulate matter (PM2.5) in seven townships of Yangon City, Myanmar, Environ Health Prev Med, 2018; 23: 53. DOI: 10.1186/s12199-018-0741-0.
- Tin Tin Win Shwe, et al.: ポケット PM2.5センサー [Pro]を用いた PM2.5の個人曝露評価のパイロット研究, 室内環境学会学術大会予稿, 沖縄, 2019/12/5.
- 慶應義塾大学プレスリリース:地下鉄駅構内環境中の粒子状物質調査を公表、2019 年 1 月 11 日
- 丸尾 容子, 澤石 諒, 金子 善明, 石垣 陽, 松本 佳宣, 本田 裕二: 小型大気計測センサを用いた仙台港周辺での環境測定, 東北工業大学 地域連携センター紀要 『EOS』 Vol.31 No.1, 2018
- 丸尾 容子, 石垣 陽,松本 佳宜: PM2 . 5センサとNO2及びO3パッシブサンプラを用いた仙台港周辺の大気環境測定 第24回大気環境学会 北海道東北支部 要旨, 2017/10/13